人生は夕暮れから面白い

冒険心と感動を持たない人生はつまらない

丸亀城の石垣がぁぁぁぁぁ・・(>_<)。

 丸亀城・・・、この間の台風だけではないのでしょうが、石垣の・・・かなりもろくなっていた部分が崩落して、あの見事な曲線美が台無しになったと朝刊に出ていました・・(/_;)。

 古城で・・丸亀城ってとても味のある城で、天守こそ小さいですが、あの優しすぎる曲線美の石垣が・・・、実は何処の城よりも防備力が高くてワタシは大好きだったのですよ・・。

 四国に行けば必ず丸亀城に寄ります。国道11号を松山から高松に走れば左手にそれて、すぐの距離にありますので必ずと言っていいほど寄ってしまいがちです・・。

 蛇足ながら、右手に折れれば満濃町に行き、山越うどんが待っているのですけれどね・・・(^_^)。

 丸亀城は標高66メートルの小高い亀山に築かれた平山城で、天守と大手一の門・大手二の門・藩主玄関先御門・番所・御籠部屋・長屋が現存していて、そのうち天守・大手一の門・大手二の門は重要文化財に指定されているのですよ・・(^_^)。

 この城の沿革としては、生駒政親が慶長2年に秀吉から讃岐17万石を与えられて、高松に城を構えたのですが、その支城として建築されて、慶長7年に完成したものなんです・・。

 まあ、生駒氏はお家騒動を引き起こして出羽・矢島1万石に転封されますから、その後に山崎家治が天草から丸亀5万石として入封して、寛永18年以後は丸亀藩としての独立した位置づけを貰うようになる訳です。

 山崎氏には 2代俊家は在位4年で没。3歳で襲封した3代治頼も8歳で没、 それ以後跡継ぎがいなかったために、これにより幕府より領地没収でお家断絶・・・、その後は播磨から京極高和が入封・・・、以後明治まで京極氏の時代が続く訳なのですよ・・。(^_^)

 現在の石垣は大半が延宝元年に石工の羽坂重三郎によって作り替えられたもので、だから1673年から現在に至るまで年代物なんですよねぇ・・。

 そりゃ手を入れて無いと崩れもしますよねぇ・・。

 しかし、丸亀藩は5万石とは言われていても実質は6万石・・、1694年(元禄7年)には1万石の分封が認められて多度津藩が成立・・、分封して以後の5万石というのはまんざら間違った数字ではないようですよ・・・(^_^)。

 丸亀藩にはどれほどの藩士がいたのかは資料が無いのでわからないのですが、推定1000人程では・・・と思われます。5万石を現在に直せば、1石が米150キロですから、現代風に1キロ500円と見立てて5万石なら37.5億、これが年間の収入です・・。ここから人件費を引いていくと、100石取りなら750万、最下層の10石取りならば年収75万・・・としても、かなり人件費で圧迫されて苦しい財政だったようですねぇ・・。

 これに幕府のお手伝い普請や参勤交代などと、江戸での上屋敷下屋敷の維持費等を考えればカツカツ・・・いや借金財政であったと思われますよ・・・。(>_<)

 まあ、内部の経済力は兎も角として、早く崩れた石垣が元に戻ってほしいですねぇ・・・。

 ファンとしてはそれだけが気がかりですよ・・・。

 

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 天守です・・。内部はハシゴ階段です・・。きっと初めての人はびっくりしますよ・・・。なにいぃぃぃ・・・これえぇぇぇぇ・・てな(^_^)。

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それに、香川のうどん県と言えばこれです・・。(^_^)

 飯野山【讃岐富士】です。県の中央に位置した、丸亀市坂出市にまたがる標高422mの山です。これがまた趣のある山なんですよ・・・。何処から見てもワタシは好きですよ・・(^_^)。

 

 今日は少し賢いお話でしたよ・・・(^_^)。

 はなまるうどん」では無かったなんて・・・。

 でも、午前にはなまるには行きましたからね(^_^)。

 まさか、うどん県の話を書くとは思ってもいませんでした・・・。

 

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